「この子の幸せのためなら死んでもいい」健康そのものだったわが子の不登校とその後
京都で雑貨店(絵と本、ことば 雑貨店おやつ)を営むトノイケ・ミキさんのお子さんは、高校1年生のある日、学校へ行けなくなりました。健康そのものだったわが子が「死にたい」、「ゼロになった」と訴えてきたとき、トノイケさんは「子どもの苦しみが治るのだったら、命を差し出したい」と思ったそうです。その後、2つの転機があり、お子さんは少しずつ元気になっていったと言います。(写真はトノイケミキさん)
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中学生のころは、風邪さえもひかず健康そのもの。朝は自分でさっと起きて学校へ行く。地形や民俗学に興味があり、本や地図で調べることが好きで、大学ではそういった勉強を深めたいと言っていた。また小学生のころに走ることに出会い、雨の日も雪の降る日も、原っぱに放たれた犬みたいにうれしそうに走っていた。
そんな生き生きしていたわが子が、高校入学から3カ月後の7月、1日中眠るようになり、学校へ行かなくなった。
高校の入学説明会では「勉強はもちろん、何ごとも楽しくやる学校です」と言われていた。勉強も部活も両方頑張りたいと思っていたわが子は、自分に合っていると感じて進路を決めた。どんなおもしろい授業をしてくれるのかと期待もあった。
ところが実際には「言うことを聞かなければ強くなれない」。「言われたことをやらないと進学できない」。教員から出た脅迫のような言葉がつらいと、母親の私に訴えるようになった。また、部活での理不尽なルールや厳しい上下関係にも疑問を持ったようだ。
私には、学校は、行き先の決まっている特急列車に無理やり子どもたちを乗せているように見えた。その上、課題という食事を、無理やり口に流し込んでいる。
私の子どもはゆっくりと歩く。だから速いスピードだと気づかないことも目を留めて気づく。じっくり観察するからこそ、もっと深く勉強したいと思う。そして、勉強のスピードもゆっくりだ。1つ1つ、味わうように深く学んでいく。一気に詰め込まれても受けつけられない。私の目からは、子どもは教育という名前の拷問に苦しんでいるように思えた。
学校が合っていないと思い通信制高校への転校をすすめたが、「友だちと離れたくない」と言う。また部活で活躍することを夢見ていた子どもにとって、転校すれば憧れの大会に出場できなくなるという思いもあった。
「行きたいけど、行くことができない」
しかし9月、ふたたび登校にトライしたとき、駅で体が動かなくなってしまった。学校に行かないのではなく「学校に行くことができないんだ」と気づいたわが子は、転校を決めた。どんなにくやしく、つらかっただろう。
そのころの子どもは、以前好きだった本を開いても何も読めなくなり、走ることもできなくなっていた。心療内科へ行くと、適応障害であり、抑うつ状態ということだった。
「私の好きなもの、返して」。「持っていたものをすべてなくした、ゼロになった」。そう泣く子どもを、私は抱きしめることしかできなかった。