ひろさちやさんに聞く「新学期自殺」

#不登校#行き渋り#いじめ

――いじめ自殺の報道を見るたびに複雑な思いを抱えます。死にたがっている人になにか救いの言葉がないだろうか、と考える一方、私自身、死んでしまいたいという気持ちがよくわかるからです。ひろさんは、いま死にたい人へどんなメッセージを送りますか?

 「橋から飛び降り自殺しようとする人に、どんな言葉をかけるのか」、これは哲学者・アランが哲学の試験問題として使っていた問いです。難しい問題ですね。きっとみなさんは、世間でよく言われる言葉のことごとくが「おためごかしだ」と思っているのでしょう。だから、なにか救いの言葉はないのか、と。結論から言えばどうしようもありません。その「どうしようもなさ」が、わからないとダメです。私は宗教評論家ですから、私の立場から言えば、人を救えるのは絶対者(神や仏)だけ、人は人を救えません。私たちには未来に対する権限がないから救えないんです。

 なんのために生きているのか

 質問のなかで「死んでしまいたい」ということを言われましたね。それは「自分はなんのために生きているのか」という疑問を持っているからでしょう。これもまた難しい問題です。サマセット・モームは小説『人間の絆』のなかで、こんな物語を書きました。
  「東洋のある王様が『人間の歴史を知りたい』と言い出した。学者は国内外から500巻の書物を集め王様に献上した。しかし、王様は政治に忙しく『短くしろ』と学者に命じた。学者は20年間かけて500巻の書物を50巻にまとめた。ところが王様はすでに老いて気力を失い、さらなる圧縮を求めた。学者はさら に20年間をかけて1冊の本に人間の歴史をまとめた。その本を持って王様にのもとへ行くと、すでに王様は臨終間近、一冊の本すら読めない。しかたなく学者 は王様の耳元で『人は生まれ、苦しみ、そして死にます。これが人間の歴史です』と言った」。
 人の歴史を一言で表すなら、ただそれだけになってしまうんです。仏教のお釈迦さんも「生まれ、老い、病み、死ぬ、その苦しみからは、みな逃れられない」と言っています。そう考えると「人は苦しむために生きている」というのが答えなんです。

ひきこもりでも、病気でも、苦しくても そのまんま、そのまんま

――苦しむために生きてるなら、いますぐ飛び降りますよ。そしたら、ひろさんはなんて言いいますか?

 うーん……、答えを求めちゃいけないんだな。だって人間の小賢しい知恵じゃわからないことのほうが多いんだから。みなさんは考えるとき、「答えはなにか」 と考えるんだと思います。そこが大きなまちがいです。学校教育なんて「答え」を教えようとしているんだから、根本的にまちがってます。

 飛び降り ようとする人に何を言うのか。その答えは、いろいろあるでしょう。「やめろ!」もあるし、「どうぞ、飛び降りなさい」もあるし、「いっしょに飛び降りません か」もある。どんな言葉でも「答え」にはなりませんし、まちがいでもない。私から言えることがあるとすれば、苦しいときはしっかりと苦しむしかほかないということです。苦しみから逃げようとすればするほど、苦しいばかりになってしまいますから。

――「しっかりと苦しむのが大事」なのは共感できます。でも、それをいま苦しんでいる人には言えません。

 「苦しんでいる人」って誰のことですか。顔は見えていますか。顔のない人にメッセージを発しようとしても無理ですよ。「ひとりで苦しんでいる人へ」とか 「新聞の読者へ」とか、そういう抽象的な対象に向かってなにかをしようと思ってもダメです。なにかをできるとするならば、いま目の前の人だけ。そして本当に自分がその人を救いたい気持ちがあるかも大事です。だって本当に死ぬことを止めたけりゃあ、ぶん殴って止めるという方法だってある。自分のすべてを犠牲にして付きっきりで見張る方法だってある。それでも死んでしまうことだってあるんですけどね。

――「仏の教え」を信じられるところに、ひろさんの強さはあると思いますが、私のまわりで死んだ3人は神や仏も信じられないほど、世の中に絶望していたんじゃないでしょうか。

 いたしかたないのは、日本はインチキ宗教ばかりです。ほとんどが「ご利益信仰」でしょ。「私たちの宗教を信じれば病気や苦しみから救われますよ」という宗教はウソです。貧乏な人が貧乏なまま、病気の人が病気のまま生きていける勇気を与えてくれるのが本当の宗教です。

 ある講演会で出会った青年から「僕はひきこもりになったんです、どうしたらいいんですか?」と言われました。私は「ひきこもりになったら、もうすこしひき こもりのままでいなさいよ」と。それを聞いて青年の顔がすごく明るくなったのを覚えています。青年には「どうしても苦しくなったら、いい文句を教えてあげよう。『南無そのまんま、そのまんま』と三度、唱えるんだよ」と。

 「南無」というのは梵語で「お任せします」という意味です。「南無そのまんま」は、仏にすべてをお任せしますという意思表明だと思ってもらいたい。不登校でも、そのまんま。病気でもそのまんま。病気を早く治そうと焦れば焦るほど治りが遅いものです。なのでそのまんまを生きていく。病気が治ったら、それはそれでそのまんま。無理して病気になることはできないし、病気を無理に治すこともできません。すべてにおいて、そのまんまを生きていく。ここが仏教の本質です。あなたのあるがまま、そのまんまを生きていきなさい、と。

「死なないで」と「つらかったね」

――苦しくて死んだ人も「そのまんま」でよかったのでしょうか?

 あらゆる問題を、私は「BA型の論理」で考えています。Bは、before(以前)、Aはafter(以後)。BとAは分けて考えなきゃいけない。たとえば自殺の場合、本人を死なせたくない周囲の人はいろんなことを言いますね。それはそれでいいんです。でも、死んでしまったら「つらかったんだね、きっと向こうでよくなってるよ」と言って、それを信じる。自殺以前(B)と以後(A)では、本人にかける言葉がちがっていて当然です。そこはごちゃまぜにしちゃいけません。

――なるほど、「そのまんまで」という意見には共感できますが、「生きることは苦しみ」だとしたら、やっぱりイヤです。

 なんで苦しいのがつらいの? 野球選手が野球の練習をするのは苦しいはずです。野球選手だけじゃなくて、子どもがゲームをクリアするのも、みなさんが取材に来て記事をつくるのだって苦しいでしょ。でも苦しいことを本当は楽しんでいるんじゃないの。苦しみから逃げよう、苦労がないほうがいいと思いすぎているんじゃないのかな。

――でも、いじめは強制された苦痛ですよ。

 いじめはたしかにそうです。ただし、いじめに関しては、いろんな問題をごちゃまぜにして考えすぎです。報道では「いじめる人」を袋叩きにしていますが、そもそもいじめる人といじめられる人双方が学校からいじめられています。先生なんて人に点数をつけるなんていういじめをしている。学校自体が「子どもの商品価値」を高めるだけの機関でしかない。そんなの教育じゃなくていじめですよ。その学校も教育委員会からいじめられている。そうするとみんながいじめられているのに、いじめている側に認められたいってことに なる。だから大事なのは、自分がどういじめから逃げるかなんです。その答えは決まりきっていて、学校なんて行かなきゃいいんだよ。世間に迎合して苦しむ必要なんかないし、世間なんかバカにしてやればいいわけです。

 世間に迎合して苦しまなくても

――世間が正しいとは思わないですが、ある程度は世間に合わせないと、生活費すら稼げません。

 ある編集者から「人生の危機にどんな本を読めばいいでしょうか」と聞かれたんです。

 編集者が言う「人生の危機」とはリストラやいじめ、あるいは受験失敗だとか、だと。でも、それは「生活の危機」であって「人生の危機」じゃありません。人生の危機というのは「自分はなんのために生きているのか」という問いのこと。そこが一番の問題で、働き口がどうのとか、生活費とかの問題は「生活の問題」です。そんなのは各自、好きなようにしなさい(笑)。稼ぐ方法なんていくらでもあるけど、それぞれの暮らしたい基準で、どうにかすればいいでしょ。でも、あなたが何のために生きているかと言えば生活するためじゃないんだよ。

 不登校、ひきこもり、あるいは生活保護や障害者年金をもらっていることが世間の最下層だとして、そこから這い上がろうとするならば、それは世間に認められようとしているということです。あなたがたは世間に偶像を抱いて、その偶像へ必死にすり寄ろうとするから苦しんいんじゃないですか。ほんのちょっとでも世間に認められたいと思ったら、世間はそのハードルをどんどん高くして、あなたを「世間の奴隷」にしてしまいますよ。世間なんて笑い飛ばせばいい。ブッダもキリストも、みんな世間を放棄するところから始めたんですから。

――ありがとうございました(聞き手・石井志昂/子ども若者編集部)

(初出:不登校新聞345号(2012年9月1日発行)。掲載内容は初出当時のものであり、法律・制度・データなどは最新ではない場合があります)

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