「不登校でもよいけど、私の支え方はあってるの」子育ての正解に悩んだ母親の葛藤【全文公開】
光岡優美さん(仮名)の息子・雄一郎さん(仮名)は、聴覚過敏などのストレスから、小学校1年生の9月から不登校になり、以降6年生まで情緒学級や区の支援施設ですごしました。しかしその後、中学校には皆勤で通い、現在は20歳となり専門学校で学んでいます。葛藤を抱えながらも息子さんをのびのびと育てた光岡優美さんのインタビューと、息子・雄一郎さん本人のインタビューとを合わせて掲載します。
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――小学1年生~6年生までの息子さんの不登校をふり返って一番不安だったことはなんですか?
あらためて考えてみると、息子についての不安というより、私自身についての不安のほうが大きかったです。私は息子が不登校なのはしかたがないと思っていて、家で楽しくのびのびすごせればいいだろう、と思っていました。
ただ、それでも「彼がこの先、生きていくために必要な手段を私は正しく選べているのだろうか?」、「私の勝手な思い込みで、彼の可能性を潰していないだろうか?」という不安がつねにありました。子育ての正解がわからなかったのが、苦しかったんですね。
――息子さんは小学校1年生の9月から不登校とのことですね。当時はどんなようすだったのですか?
息子は幼稚園のころから集団行動が苦手で、ひとりだけ別メニューですごしていました。聴覚が過敏で、不必要な音まで拾ってしまうことも大きなストレスになっていたようです。そんな息子ですから、小学校に入学して、1学期は休みながらもなんとか通っていたのですが、夏休み明けから行き渋るようになりました。暑さや湿気に極端に弱いという性質もあったので、残暑がつらかったのでしょうね。私は、学校へ行かないことを「悪いこと」だとは思いませんでした。集団生活そのものにこんなに負担を感じているのだから、行かせるほうがかわいそうだな、と。葛藤がなかったわけではないのですが、無理に通わせることはせず、そのまま不登校というかたちになりました。
学校の対応は、情緒学級のある学校だったこともあり、他校よりは不登校に対する理解はあったのかもしれません。ただ、情緒学級に入れるのは2年生からだったので、1年生のときは校長先生や担任の先生に対応していただきました。
校長先生はよくわかってくださる方で、息子は何かあると校長室に逃げ込んでいたようです。担任の先生も新任でしたが理解があって、週1回、1時間ほど自宅に来てくださいました。ほかにも、6年生を受け持っている先生に理解のある方がいて、ときどき6年生の授業中、教室に座らせてくださいました。1年生の教室に比べたら静かなので、聴覚過敏のある息子にとっては居心地がよかったのでしょう。
他方で、保健室の先生には「ここは君の来るところではない」と言われたようです。学年主任の先生も、最初こそ気にかけてくださいましたが、その後は何も対応してくださいませんでした。ふり返ってみても、先生による理解の差がとても大きかったように思います。
2年生になってからは、情緒学級に週1回、区の支援施設に週1回通い、それ以外は家ですごす生活を続けました。途中、何度かよい先生や優しいクラスメイトに巡り合うこともありましたが、息子自身がまだ集団のなかでじっとしてすごしたり、人の言葉から感情を読み取ったりすることができなくて、クラスに入ることはできませんでした。結局、不登校になってから6年間、一度も通常学級には入っていないんです。
自転車で小旅行に
――不登校中、息子さんはどんなふうにすごされていましたか?
好きなことをしながら、のんびりすごしていましたね。小さなころはパソコンで絵を描いたりすることが好きでしたが、ある程度大きくなってからはよく自転車で走り回っていました。ひとつ、ビックリするようなエピソードがあります。息子が小3になったある日、私の親から「雄一郎が自転車で来たよ!」と突然電話がかかってきたんです。都内の自宅から千葉にある私の実家まで、標識を見ながらひとりで自転車旅行しちゃったんですよ。小3で、ですよ(笑)。
そんなふうに、放っておくと無謀な旅に出るような一面もありました。当然、心配な気持ちもあったのですが、本人の意志で行動したことはすべて大事な経験だとも思うんですよね。だから私としては「健康で生きていてくれたらそれでいいよ、自由にしたらいいよ」という感じでした。家の手伝いをよくしてくれたことも印象に残っています。私の外出中に雨が降ってきたら洗濯物を取り込んでくれることもあって、とても助かっていました。
それからもうひとつ、とてもうれしかったことがあります。息子がちょうど学校へ行かなくなったころに、私が下の子を妊娠したんです。すこしずつお腹が大きくなっていくのを息子といっしょに見ながら、妹の誕生を楽しみにする毎日でした。
妹が生まれたのは、息子が小学2年生だった6月。息子は妹をすごくかわいがっていました。面倒もよくみてくれたし、毎日妹の写真を撮って、A4用紙1枚をつかって新聞のようなものをつくっていたんですよ。私としては、学校へ行かなくなって、人との関わりを学ぶ機会が減ったことが気がかりでした。でも、生まれたばかりの妹を通して「自分とはちがう命」と関わる勉強ができているんだなと、ほっとしたことを覚えています。
――気持ちがあたたかくなるエピソードですね。お家ですごすなか、勉強の遅れなどは不安になりませんでしたか?
勉強を無理強いすることはありませんでした。漢字は書けないし計算も苦手だったけれど、鉄道が好きだったせいか難しい駅名の漢字は幼稚園のころから読めました。だから、本人に勉強したいという気持ちが生まれさえすれば、漢字や計算なんていくらでも習得できるにちがいない、という楽観的な気持ちがあったんです。もちろん、葛藤はありましたよ。このまま好きなことだけやらせて、はたしてこの子は大丈夫なんだろうかって。ただ、息子の場合は感覚過敏のつらさも抱えていましたし、無理に勉強させるよりも自分で考えて行動するほうが将来的にプラスになるだろう、と思っていました。
5年生になって成長したけれど
息子は5年生になると急激に成長しました。情緒学級の先生の関わり方がよかったのだと思います。集団生活に入っても、もう大丈夫そうだな、と思えるまでになっていたんです。しかし、悪いことに当時のクラス担任の先生は理解がなかったんですね。本人が大事にしているものを先生だけに見せたのに、クラスの一員だからという理由でみんなの前に張り出されたりしたんです。「本人の気持ちを優先してほしい」と何度伝えても、自分がよかれと思うことを優先してしまう人だったんですね。これ以上関わると息子が人を信頼できなくなってしまうと思い、5年生と6年生は私の意志で行かせませんでした。
中学への進学については、最初はフリースクールを探していましたが、本人の成長を見て、もしかしたら区立中学に通えるかもしれないと思いました。そこで、フリースクールと並行して、情緒学級のある区立中学校とも連携をとっていきました。その後、区立中学校へ入学し、結果的にはインフルエンザになったとき以外、一度も休まず通ったんですよ(笑)。3つの小学校から生徒が集まってくるような中学校だったので、知らない子が多かったことが、本人にとってはよかったのかもしれません。また、中学校での勉強は不安でしたけれど、英語や古文・漢文など、新しく始まる科目が多いので、なんとかなったようです。
そんな息子も今は20歳になり、専門学校へ通っています。もう、人間関係で困っているようすは見られません。ずいぶん口が達者になって、しょっちゅう言い負かされて腹の立つこともあります(笑)。でも本当に大切な、自慢の息子です。
――不登校の子どものことでつらい思いをしている保護者の方に伝えたいことはありますか?
不登校のお子さんを抱えていると、出口のないトンネルのなかにいるように感じることがあるかと思います。登校させることばかりに注力して、つらくなってしまう方もいらっしゃると思います。そんなときは、学校へ行くか行かないかはひとまず置いて、「自分は自分、子どもは子ども」と切り離してみるのはいかがでしょうか。自分がどうしたいのかではなく、本人がどうしたいのか、今後、本人が困らないようにするためには何ができるのか、という視点で向き合うようにすると、つらさがすこし和らぐかもしれません。
経験者としてお伝えしたいのは、「不登校は人生におけるマイナスではない」ということ。不登校であろうがなかろうが、その期間のすごし方が将来につながっていきます。つらくて苦しいだけの時間をすごすなんて、もったいない。不登校なら不登校でいいんですよ。その時間を使って、後の人生につながるような経験を積むほうがずっといいと思います。大丈夫、子どもはちゃんと育っていきますよ。
――ありがとうございました。(聞き手・編集/茂手木涼岳・棚澤明子)
息子・雄一郎さんインタビュー「なんとかなるものですよ」
じつは、僕は不登校だったころの記憶がほとんどないんです。何か引っかかりがあったら覚えていると思うので、「覚えていない」ということは、僕が自由にすごしていた証拠なんでしょうね。母がのびのび育ててくれたおかげだと思います。すべてにおいて感謝です。
不登校だったことを気にしたことはありません。僕は「学校へ行かなかったことで得られたもの」のほうが、「行けば得られたかもしれないもの」よりも多いと思うんです。だからまったく問題ないと思っています(笑)。不登校も含めて、自分の人生ですね。
今は20歳となり、建築関係の専門学校へ通っています。子どものころ、自転車で走り回りながら建物をたくさん見たことが、建築に興味を持ち始めたきっかけです。まさに、「学校へ行かなかったからこそ得られた」僕の原点ですね。将来は建築関係の仕事に就きたいと思っています。
今、不登校で苦しい思いをしている子には「そんなに考えすぎなくても大丈夫なんじゃない?」と伝えたいですね。「学校へ行かない自分を許せない」という子もいるようですが、許そうが許すまいが時間はすぎるし、世界はまわっていきます。なんとかなるものですよ。(光岡雄一郎さん/仮名・20歳)
(初出:不登校新聞586号(2022年9月15日発行)。掲載内容は初出当時のものであり、法律・制度・データなどは最新ではない場合があります)