「避難者であることを隠して生きよう」原発いじめに苦しんだ小学生の決断【全文公開】

#不登校#行き渋り

福島第一原発事故からまもなく12年。避難を余儀なくされた子どもたちのなかには、避難先でいじめにあい、不登校になったケースがすくなからずある。鴨下全生(かもした・まつき)さん(20歳)も、過酷ないじめを経験した1人だ。「早く天国へ行きたい」と思うほどの苦しさから「避難者であることを隠して生きる」と決めた鴨下さん。これまでの経緯や今伝えたいことについてうかがった(※写真は鴨下全生さん)。

* * *

――小学校2年生の3月11日に東日本大震災が起きるまでは、福島県いわき市で暮らしていたのですね。どんな毎日でしたか?

 友だちとクワガタを捕まえたり、泥団子をつくったりして遊ぶのが大好きでした。春になると、僕が摘んできたツクシを母が甘い佃煮にしてくれるのを楽しみにしていましたね。海も近かったので、家族で潮干狩りに出かけることもありました。アサリの砂抜きをするためにしゃがみ込んで、青い桶をのぞき込んでいる父の後ろ姿をよく覚えています。

――震災直後、どのようなことが起こったのですか?

 大きな揺れが来たとき、僕はピアノ教室へ行くために玄関を出たところでした。船酔いするような揺れに立っていられなくなった僕を、母が抱っこしてくれました。

 夜は停電したのでろうそくを灯してすごしたのですが、明け方、母が僕と弟を起こして「今から車で横浜のおばあちゃんの家へ行くから、好きなおもちゃを3つだけ持って」と言ったんです。弟が3つに決められないと言うから、僕は2つにして、弟に4つ選ばせてあげました。
 横浜に着いたのは次の日の夜中の1時ごろでしたね。母からは「いわきには体に悪い毒があるから、すこしのあいだ離れるんだよ」と言われました。そのとき、僕は「1週間くらいで帰れるのかな」と思っていたような気がします。

 原発が爆発したのは、僕たちが横浜に向けて移動していたときでした。両親ともに理系で、原発や放射線についての知識もあったので、爆発を予想して早めに避難したそうです。

――その後、避難先の東京の小学校に転入したのですね。

 学年末ギリギリで、えんぴつ3本以外ランドセルも教科書も持っていなかったけれど、新しい小学校ではみんなが温かく迎えてくれました。でも、3年生になった4月なかば、クラスメイトから突然「金を盗った」「金を返せ」と言われるようになりました。図工の時間につくった作品に「ばか」「しね」「どろぼう」という、ひどい言葉がたくさん書かれていたこともあります。これを置いておきたくないと思って、すぐにゴミ箱に捨てました。鬼ごっこで僕だけ鬼を代わってもらえなかったり、授業中にグループをつくるときに机をくっつけてもらえなかったりしたこともありました。すれちがいざまに「福島のやつは変なやつ」と言われたこともあります。

いわれのない非難を受け

 東京の人は怖いし、学校はわけのわからない場所だ……。そう思うとからだが重たくなって、朝、玄関から出られなくなりました。学校の先生は母に電話で「息子さんは授業中に大声を出したりするから、発達障害の薬をもらうほうがいい」と言ったそうです。僕が大声を出していたのは、隣の席の子が机の下で僕の太ももを鉛筆で刺すからなのに……。

 5月になると、僕たちは避難所となっていた都内の大きな廃ホテルに入ることになったので、結局、その小学校へはほとんど行かずに終わりました。

――次の小学校での生活はいかがでしたか?

 そこでも、僕はまたいじめられました。いじめられているときは、「明日は絶対に休もう」と思いながらガマンしていました。でも、休んだ日は「休んでしまった」という罪悪感に苦しめられます。4年生の七夕では、とにかく楽になりたいという思いから、「早く天国に行きたい」と書いたことを覚えています。

 高学年になっても、手の甲を足で踏まれて捻挫したり、階段で突き飛ばされたり、ゴミの入った飲み物を飲むように言われたり……といじめが続いていました。そのなかでも一番つらかったのは、クラスのみんなから無視されたことでした。目に見える傷にはならないけれど、無視は相手から居場所も人権も奪うものです。僕はだんだん、自分が避難者であることを知っている人がいない中学校に進学したいと思うようになりました。

――いじめの原因に、福島からの避難者であることが関係していたのですか?

 「東京電力が避難者に100万円の倍賞金を仮払いする」というニュースが流れたのが2011年4月15日。これは、クラスメイトが突然僕をいじめるようになった時期とぴったり重なっています。

 当時は、誰も学校にお金なんか持ってきていないのに、「金を返せ」と言われる意味がわからなかったのですが、賠償金のニュースを見た大人が「避難者はたくさん金をもらってずるい」などと言うのを隣で聞いていた子どもたちが、学校で身近にいる避難者をいじめたのではないか、と人から指摘されました。実際、同じ時期にこのような暴言を吐かれたという避難者の話を、あとになってからたくさん聞きました。

避難の事実 隠して生活

――その後は避難者であることを伏せて、知り合いのいない遠方の中高一貫校に入学したのですね。どんな毎日でしたか?

 いじめはいっさいなくて、「本来の学校生活とはこんなに平和なものなのか!」と驚きました。でも、1年ほどたったころから、これまでとはちがう苦しさが出てきました。避難者であることを隠すというのは、何気ない会話のなかでさえ、自分のことを何一つ話せないということ。それは、とても苦しいことなんです。でも、またいじめられるのは怖いので、誰にも苦しさを打ち明けられずにいました。

 そのうちにだんだんと僕が僕でないような気がしてきて、不眠や頭痛など、体からのSOSが出るようになりました。高校生になると、ふとした瞬間に涙が出てきたり、原発のことが話題になるとパニックになってしまったり……。自分のことは話さないと自分で決めたのに、それをつらいと思ってしまう自分が許せない。話したいという自分と、話してはいけないという自分、2人が僕を否定してくる。僕はだんだん自分を保てなくなって、生きる気力をなくしていきました。

――おつらかったですね。そんな苦しさがピークに達していた高校1年生のときに、なんとローマ教皇に謁見したのですよね。どのような経緯があったのですか?

 僕が苦しんでいることを知って、避難者の支援をしていたキリスト教団体の方が、ローマ教皇に手紙を書くことを勧めてくれたのです。「あのローマ教皇に?」とびっくりしましたが、うちは親がクリスチャンなので、わりと自然に受けとめたような気がします。

 思い出すのもいやなことを文章にするのは苦しい時間でしたが、崩れてしまいそうな自分の気持ちと、すべての原発事故被害者の苦しみを受けとめてほしいということを必死で書きました。

ローマ教皇に思いを伝え

 僕も親も、まさか本当に読んでもらえるとは思っていなかったのですが、驚いたことに「謁見行事に来るように」というお返事が届きました。それで高校1年の3月に、バチカンでローマ教皇と直接お会いすることができたのです。

 この手紙のなかで、僕は勇気をふり絞って実名を出しました。なぜなら、原発事故被害者の実情をありのままに伝えたかったから。何かを本気で伝えようとするなら、匿名より実名のほうが説得力がありますよね。それに、ローマ教皇という公人に対して匿名というわけにはいきません。

 これをきっかけに、僕は避難者であることを友人にカミングアウトする決心をしました。謁見すれば報道でも取り上げられるので、いずれわかってしまいますから。打ち明けるのは勇気がいったけれど、すでにしっかりした友人関係ができあがっていたおかげか、心配していたようなことは起きませんでした。謁見についても、「すげえじゃん!」っていう軽い反応でしたね。それで、気持ちはずいぶん楽になりました。

 その年の11月にはローマ教皇が来日して、東日本大震災の被災者の集まりに列席されました。そこで僕はスピーチをしたのですが、教皇はスピーチを終えた僕を「またお会いできましたね」とハグをしてくれたのです。そのようすは翌日、大きな写真つきで海外のニュースでも伝えられました。

ローマ教皇とハグをする写真を持つ鴨下さん

――勇気をふり絞って顔と名前を出し、友人からの理解も得られて、気持ちは落ち着きましたか?

 それが、ローマ教皇とのハグの翌日から、僕は体調を崩して学校へ行けなくなってしまったのです。最初は腹痛と高熱で、その後、歩くことも話すこともできなくなり、さらにはリストカットもするようになってしまいました。死にたいわけではないのですが、血を見ると不思議と落ち着くのです。母いわく、あのころの僕は「眠る力さえ失った抜け殻のよう」だったそうです。

 結局、高校2年の11月から1年4カ月間、僕はうつ状態で、登校できないまま卒業しました。コロナ禍だったので、欠席扱いにならなかったのが幸いでしたね。どうして、あのタイミングでうつ状態になってしまったのか、正直、自分でもわかりません。医者からは「長く続いたいじめや自分のことを言えなかった時期のことなど、いろいろな苦しさがこのタイミングで出たのかもしれないね」と言われました。その後、大学に進学したのですが、今も人と関わることは得意ではなくて、精神科への通院も続けています。

――当時、自分をいじめていたクラスメイトに対しては、今どのように思っていますか?

 一人ひとりを恨んでいるというわけではありません。なぜなら、彼らは避難者のことを「働きもせず、大金をもらって暮らしているずるい奴ら」だと信じ込んでいたのでしょうから、彼らにとって僕をいじめることは正義感によるものだったと思うのです。正義感って主観でしかないんですよ。

 だからこそ、あの時期、国が正しい情報を出すべきだったと僕は思っています。避難した人たちがどれだけ深刻な被害を被ったのかということ、賠償金というお金の性質、そういうことを、たとえばACのテレビコマーシャルなどで周知することもできたのではないでしょうか? 問題は、誰がいじめたのかとか、何をされたのかとか、そんなことではないのです。

 個人の話にすり替えていくと、問題はどんどん小さくなって消えてしまいます。正しい情報を発信する責任があるのは国です。あのときの親や子どもを探し出して吊るし上げても、なんの意味もないと思っています。

――ありがとうございました。(聞き手/編集・棚澤明子)

取材後記

 私はライフワークとして、福島第一原発事故被害者への取材を続けています。そのなかで、賠償金に対する無理解やねたみによる誹謗中傷については何度も耳にしてきました。2016年11月16日、避難先でいじめにあった小学生についての報道が出ました。その少年は「賠償金があるだろう」と同級生から約150万円を巻き上げられたそうです。小学校でもこんなことが起きるのかと衝撃を受けました。

 その後、同じようにいじめ被害の経験がある鴨下さんに出会い、今回お話を聞かせていただきました。「正しい情報を出すべき責任を負っていたのは国だ」という本質を突く視点にはっとさせられると同時に、日々のニュースについて、私自身もわが子の前で軽はずみな発言をしていることに思い至ってぞっとしています。正確さを欠く自分の発言が、巡りめぐって誰かを攻撃しているのかもしれない。そのような想像力を働かせることを手放してはいけない、と痛感しています。(棚澤明子)

(初出:不登校新聞596号(2023年2月15日発行)。掲載内容は初出当時のものであり、法律・制度・データなどは最新ではない場合があります)

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