嫌なことはしないで生きる「レンタルなんもしない人」の覚悟
「なんもできませんが僕を貸し出します」というツイートが、瞬く間にネット上で話題になった。ツイートしたのはレンタルなんもしない人さん(36歳)。貸し出し費用は1万円と交通費実費。何もしない仕事(サービス)が話題となり、「依頼が殺到した」という。お金をもらって「なんもしない」とはどういうことなのか。そもそもなぜ「なんもしない」を仕事にしようとするだろうのか。
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――これまで、どんな依頼を受けてきましたか?
依頼内容は人によってさまざまです。たとえば「ライブや舞台に付き合ってほしい」、「ひとりで入りにくい店にいっしょに入ってほしい」など、僕がそこにいるだけでいいような依頼を受けています。
僕がやっているのは「人間ひとりの存在を一時的に貸し出す」というサービスなので、ごく簡単な受け答えのみで、それ以外はなんもしません。
仕事を受ける判断基準は
僕が仕事を受けるか受けないかの判断基準は、「イヤなことはしない」ということ。
それは仕事だけでなく物事を判断するうえでの基準にもなっていますが、どんなに自分がその仕事をおもしろく感じても、がんばらなきゃいけない依頼の場合は、しんどくなるので、できるだけ避けています。そういう意味での「なんもしない」です。
とはいえ、基本的になんでもおもしろいと思いながら仕事をしています。仮につまらない依頼であったとしても、「こんなことでよく呼び出せるな」というつまらなさが、逆におもしろいですからね。
――「イヤなことはしない」ってとても潔いですよね。私の場合は大人になるにつれ、何かをしなきゃいけない重圧を感じ、イヤなことも飲み込んでいかないと、冷たい目で見られるのではないかと不安に感じてしまいます。レンタルさんが「なんもしない」と思えるようになったのは、何か経緯があるのでしょうか?
メディアから取材を受けるようになって、今のスタイルに至るまでの経緯をよく聞かれるんですけど、自分でもよくわかっていません。
まだ取材に慣れていないころは「気の利いたことを言わなければ」と思って、今の活動に行き着かせるための過程をわかりやすく説明するようにしていましたが、たまたま自然とこういう活動に至ったにすぎないです。
大学生のとき、ひきこもり状態
話していて思い出したのですが、僕と『不登校新聞』の共通点を探すならば、僕も大学生のとき、ひきこもりのような状態を経験したことがありました。
小学生のころから学校へ行くこと自体が好きではありませんでした。ただ、勉強は得意だったので、テストで点数を取ることは好きでした。
先生から嫌われようが友だちが少なかろうが、「自分はテストで100点取れるから文句あるか」と思っていました。僕にとって勉強は心のよりどころだったんです。
「そのためなら」との思いで、毎朝起きるのがどんなにつらくても、学校へ行っていました。
ところが志望校の大学へ入ったとたん、まわりは優秀な人だらけになってしまい、自分がこれまで思っていた「勉強ができる人はエラい」という世界観が崩れたんです。自分のアイデンティティを失ってしまって、しんどくなりました。
一方で、当時はインターネットにハマっていて、「ネット大喜利」に熱中していました。
ネット大喜利とはその名のとおり、インターネットのサイト上で出されたお題に対して回答を投稿し、そのおもしろさを競い合うというものです。
僕はネット大喜利がけっこう強いほうだったんですよ。ネットのなかでおもしろさを競う場で、そこで得た評価を根拠にして、再び自信を持てた。
実生活はうまくできなくても、本当の自分はネットのなかにあると思うことで、気持ちを保っていたんです。
街ですれちがう社会人や学生に
ですがネットにハマりすぎた結果、大学のレポートが提出しきれなくなり、3年生のとき一度、留年してしまいました。
そのころが、いちばん心が荒んでいた時期でした。なんにも希望がなかった。週2回から週3回ぐらい、塾でバイトをしていたので、そのときだけ外出して、あとは家にひきこもる状態が続きました。
ふつうに社会生活を送っている人たちが帰宅する時間にバイトが始まるのですが、そうするとスーツ姿のサラリーマンや授業を終えた大学生とすれちがう。それがすごくつらかったですね。
その後は理系の大学院へ進学し、出版社に就職したのですが、僕には合わなくて退職しました。
フリーランスのライターをしていたこともありましたが、何かすることに対してストレスが強くて、すぐに行き詰まる。結局すべてを投げ出しました。
「僕は“何かすること”に向いていないんだ」とそこで初めて気づいたんです。そして、どんな状況でも、現状を俯瞰してみることで、おもしろいと思える距離感をつくるのが得意なんじゃないかって。
ネットのなかで「お笑いの文化」に触れた影響で俯瞰する力が試されて、どんなことでもおもしろさを見出せるようになったのだと思います。
――レンタルさんの定義する「おもしろさ」は、世間で言われているものとは少しちがうんですね。
世間一般でいう「おもしろさ」の捉え方って狭い気がするんです。ついついエンターテイメント性や派手さのあるもののイメージが先行してしまって、お金がないとおもしろいことができないとか、家族や友だちがいないとおもしろくないと思う人が、いっぱいいると思います。
でも僕はそうはならない。僕は友だちもいないし、積極的に行動を起こそうというモチベーションも湧かないから、おもしろいことを探しに行こうとは思わない。
そんなことをしなくても、僕はどんなことでもおもしろいと思えるような要素があるはずだと思っています。
家のなかでぼーっとしたり、たまに散歩したりするだけでも、十分に幸せを満喫できる。
「ぼーっとしているだけでもおもしろいのに、なんでこれ以上、がんばらなきゃいけないんだろう」と思うんです。だからこそ、がんばって行動を起こすモチベ―ションが湧かないんです。
――私は社会に適合したほうがラクだと思い、自分のスタンスがブレブレになるのですが、レンタルさんは、なぜそこまでブレずにいられるのでしょうか?
会社へ行ってお金を稼いで一軒家を手にいれるまでがんばる。そういうことをしないと幸せになれない人たちに自分をコントロールされているのが、僕はイヤです。
僕はそれに対して逆らいたかったんだと思います。
今のやり方は自然な成り行き
だから自分のラクな方向に向かっていった結果、たまたま行き着いたのが「レンタルなんもしない人」だったんです。
僕からすれば水が高いところから低いところへ流れ着くような、それぐらい自然なことだったと思います。
活動を始めていろんな人から依頼を受けるんですけど、みなさん細かいところでいろいろ気を使っていたり、気に病んでいたり、悩みのバリエーションも幅広くておもしろいですね。
僕自身もそういうことで気になったり悩んだりしてもいいんだと思うことはあります。
僕が今「なんもしない人」に行き着くまでのあいだに悩んでいたようなことも、しかたがなかった。それってがんばって解消しようとしなくてよかったのだな、と。
――不登校についてはどう思いますか?
よいとか悪いとかはわからないです。その人に対する責任は誰にも負えません。
ただ、行きたくないなら行かなきゃいいと思います。僕自身、やりたくないことをやらなくてもいいと思っているし、やらなくちゃいけない世界なんてないと信じているからです。
それを裏づけるために、僕はやりたくないことはやらないようにしています。僕は実験できる環境にあるから今の活動ができるけど、やりたくないことをやらなくなった結果、死んでしまうというのも含めて「大丈夫だ」と思っています。
結果的に死んでしまっても、こういうふうに死ぬのかとか、こういうふうに活動が終わるのかというのも含めた実験でもあるので、そういう覚悟があればいいのかなと思います。
――ありがとうございました。(聞き手・木原ゆい)
【プロフィール】
1983年生まれ。出版社勤務、フリーランスのライターを経て、2018年6月から「レンタルなんもしない人」の活動を始める。著書に『〈レンタルなんもしない人〉というサービスをはじめます。』(河出書房新社)、『レンタルなんもしない人のなんもしなかった話』(晶文社)などがある。
(初出:不登校新聞524号(2020年2月15日発行)。掲載内容は初出当時のものであり、法律・制度・データなどは最新ではない場合があります)