「生活費の不安で押しつぶされそう」2人の息子が不登校したシングルマザーが限界の日々を抜け出せた理由【全文公開】
シングルマザーと貧困、さらには子どもの不登校が重なり、苦しい時間をすごしたという瀬戸陽子さん(仮名)。現在高2の長男・拓也さん(仮名)は小5から中2まで、現在中3の次男・純太さん(仮名)は昨年から、それぞれ不登校です。生活費の不安や息子の暴力・うつに直面し、心身のバランスを崩してしまった陽子さんは、どのようにして長いトンネルを抜けたのでしょうか。
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――陽子さんはシングルマザーとしてお子さんを育てつつ、フリーランスのカメラマン兼編集者として、お仕事に奔走されてきたとうかがいました。
私は子どもが生まれる前から、正社員として編集プロダクションで撮影や編集などの仕事をしていました。次男が生まれてすぐに離婚したので、子どもたちを養うためにも、その会社でずっと働き続けるつもりでいたんです。
ところが、次男が3歳のときに自閉症だと診断されて、週に1回、療育に通わなければならなくなりました。ちょうど会社が傾いて他社と合併するタイミングに重なったせいか、上司から「辞めてもらいたい」とはっきり言われたのもこのころです。子育てのために残業もできず、週1で早退する私を切るよいタイミングだったのでしょうね。
そこからがんばって仕事を探したのですが、小1と4歳児を抱える40歳すぎのシングルマザーを採用したい会社なんてありませんよね。はっきり理由を言われたわけではないのですが、10社以上落ちました。仕事を選ばなければ、なんとかなったのかもしれないけれど、どうしてもこの仕事をあきらめきれなくて。自分で仕事をかき集めて食いつないでいこうと思って、フリーランスとしてやっていくことにしたんです。
私には頼れる親も親戚もいないし、元夫は養育費をいっさい払ってくれません。生活保護の申請をする余裕すらなくて、どんなにギャラが安くても仕事があれば、昼夜問わずどこへでも行きました。食事は支援団体を頼ったり、撮影現場で子どもの分のお弁当も分けてもらったり。情けないけれど、必死でしたね。取材から帰ってきたら締切に向けて夜通し仕事をしないといけないし、週末は週末で撮影が入る。休みたいと思っても、休んでしまうと、生活費の不安で押しつぶされそうになるんですよ。
極限状態の日々
そうこうしているうちに、家に帰るとアルコールを飲まないと家事ができないようになって、自分でも「依存症の一歩手前」だと認識するようになりました。さらには、人と話したことを覚えていなかったり、仕事の日程を忘れたりすることが続いて、これはおかしいな、と。思いきって受診したら、「適応障害」であり、「ワーカホリック」でもあると言われました。とはいえ、目の前にお腹をすかせた小学校低学年の2人がいる以上、休みたくても休めませんよね。精神科の薬を頼りに、走り続けるしかありませんでした。
子どもたちに「あなたたちが自分でここまでやってくれたら、私はこれだけの時間を仕事にあてられる。そうしたら、これだけのごはんを買えるのよ」なんて、言ってもわからないのに言い聞かせたりして、可哀想だったなと思います。でも、当時は彼らの気持ちを想像する余裕なんてありませんでした。
――そんな状況のなかで、長男の拓也さんが小5から不登校になったのですね。何かきっかけがあったのでしょうか。
拓也は「お祭り男」のようなタイプで、はしゃぐと人との距離感がわからなくなってしまいがち。小3のときにADHDだと診断されました。きっとその特性ゆえに、学校生活のなかで居心地悪く感じる場面がたくさんあったのでしょう。大きなきっかけがあったわけではないのですが、小5のときから休みがちになりました。
事態が悪化したのが小6のとき。特定の友だちとのあいだにトラブルが起きたことで荒れて、壁を殴って穴をあけたり、支援級に通っている弟を殴ったりするようになりました。学校の先生が弟のアザに気づいて私の虐待を疑ったり、自治体の子ども家庭支援課から連絡があったのも小6のときです。私にとっても初めてのことだったので余裕がなくて、カッとなって怒鳴り返してバトルになることもありました。もっとちがう言葉をかけてあげられていたら……と今ふり返ると、本当にもうしわけない気持ちですね。小6で完全不登校になったものの長男はなんとか卒業して、中学校では念願の野球部に入りました。
でも、体育会系特有の上下関係がストレスだったのか、帰ってくるなりドアを蹴飛ばしたり、壁を殴ったりすることが何度もありました。もう、穴があいてない壁がないくらい。近所の人が通報して、警察が来たことが3回もあったんですよ。そんな日は家にいられなくて、次男だけを連れて、無意味に外を歩きまわりました。仕事の締切があるから、本当はすぐにでも取りかからないといけない。でも、帰りたくない。進んでいく時計を見ながら、焦りで自分がどんどんおかしくなっていく……。本当にしんどい時期でした。
――その後、さらに拓也さんの状況が悪化して試練のときが続いたのですね。
中1の1学期、拓也はさみだれ登校になっていて、部活だけ出たりしていました。それが友だちから不評だったようで、あるとき「授業に出ないくせに、部活だけ出るなんてずるい」と言われて、激怒して帰ってきたんです。暴れた勢いで私に殴りかかったので、次男が警察に通報しました。連れて行かれた拓也は、「あんな家には帰りたくない」と言ったようです。すでに3回も警察沙汰になっていたので、私が虐待していると思われたのでしょう。拓也は、そのまま児童相談所に保護されました。
あのときの気持ちを思い出そうと思っても、記憶がすっぽり抜けていて、思い出せないんです。ただ、はっきり覚えているのは、いつも殴られていた次男が「よかった。これで安心して寝られる」とつぶやいたことですね。
拓也は月に1度、児童精神科に通っていたのですが、保護された翌日がちょうど予約の日でした。私が1人で出向いて「先生、間に合いませんでした。昨日、児相に保護されました」と報告したら、主治医がすごく怒って「行くところがちがうんだよ! 彼が行くべきなのは児相じゃなくて病院だよ! 思春期の子は、うつの症状が暴力というかたちで出ることがある。必要なのは保護じゃなくて治療なんだ」って。でも、一度保護されると2カ月は帰してもらえないので、このときはもうどうしようもありませんでした。
それから1年たった中2の冬、拓也は今度は部屋から出てこなくなりました。すごく痩せてしまって、トイレへ行くのもやっと。主治医に診てもらったら、やっぱりうつ病だと。1カ月ほど入院したのですが、入院生活はつらかったみたいですね。自分をコントロールできなくて突然ガラスを割ったりするような子たちもいたようで、「ここは俺のいるところじゃないと思った」と後になって話してくれました。本人いわく、思い出したくもない「黒歴史」だそうです。
――拓也さんが入院した2020年には、コロナ禍で緊急事態宣言が出ました。仕事も途絶えて、苦労されたと思います。
たしかに、仕事がすべて飛んでしまったのでたいへんではありました。でも、あのとき「世のなかには、私の力ではどうにもできないことがある」と気づいたんです。私さえがんばればなんとかなると思って必死になっても、強制終了になってしまうこともあるんですよね。それに気づいた瞬間、仕事への執着がすーっと消えて、見える景色が変わりました。「無理なものは無理、大事なのはみんなが健康でいること」だと心底思えたんです。
写真で思い出す 自己肯定感
同時に、私には地元に友だちがいないこと、もし地元の人たちとつながれたら、そこから仕事が生まれるかもしれないことにも気づいて、写真をテーマにした小さな活動をいくつか始めました。そのうちのひとつが、子どもががんばったときの写真を部屋に飾って、子どもの自己肯定感アップを目指す「ほめ写プロジェクト」のアンバサダーになったこと。でも、考えてみたら、私は子どもの写真を飾ったことなんてこれまで一度もありません。だから、拓也が野球の試合でヒットを打った瞬間の写真を、壁の穴をふさぐように貼ってみました。そうしたら、1カ月くらいたったときに「俺、このとき、このカーブを待ってたんだ」って、写真を見ながら得意気につぶやいたんです。ああ、こうして自分で自分を認めることが大事なんだな、と思いました。せっかく写真に携わっているのだから、こうしたこともみんなに伝えていきたいな、と遅ればせながら思っています。
今、私はお酒も薬も飲んでいません。拓也にも、前向きに関われるようになりました。そんな私の変化が影響したのかどうかわからないのですが、拓也はコロナ禍が続いていた中3の4月からいきなり無遅刻無欠席で学校へ行くようになりました。受験勉強のスイッチも入って奇跡的に合格し、今は元気に高校に通っています。
逆に次男の純太が、中2だった昨年から学校へ行かなくなりました。幼いころから拓也の苛立ちのはけ口にされていたし、私も知らず知らずのうちに「お兄ちゃんとちがって、純太は大丈夫よね?」とプレッシャーをかけていたんですよね。
ただ、拓也の不登校に向き合っていたときとは、私の気持ちが全然ちがいます。一番大きな理由は、地域活動を通して不登校の親の会とつながったことかもしれません。以前は気持ちに余裕がなくて、必要最低限の情報以外はシャットアウト。「親の会へ行く」という発想自体がなかったんです。でも、親の会でたくさんの仲間や支援者の方々に話を聞いてもらったり、自分とはちがう意見を聞いたりしているうちに、私自身が大らかに構えられるようになりました。次男のことも、親の会で出会った支援の先生に「やっと心の膿が出始めたね」と言われて、腑に落ちたんですよ。
ふり返ってみて思うのは、「自分に余裕がないと、人には優しくできない」ということと、「人生にムダなことなんかひとつもない」ということ。それから、写真を撮るとき、一歩下がるとうまく焦点が合うことがあるでしょう? 親子も同じで、一歩引かなくちゃいけないときがあるんですよね。たくさんの方のおかげでそうしたことに気づくようになったときに、テトリスのピースがパチッとはまるように、いろいろなことがうまくまわり始めたんです。
――ありがとうございました。(聞き手・棚澤明子)
(初出:不登校新聞616号(2023年12月15日発行)。掲載内容は初出当時のものであり、法律・制度・データなどは最新ではない場合があります)