焦り、葛藤した娘の不登校。母親が感じた「待つことの意味」【全文公開】
メイン画像:当時使っていた娘さんの連絡帳。夏休み明けから続く欠席について担任とのやりとりが書かれていた。
不登校の子に対して「周囲は焦らずに待って」というアドバイスは、よく目にするものです。ところが親にとって「待つ」というのは至難の業。「いつまで待てばと」と不安がついて回ります。夏休み明けから突然、娘の不登校が始まったという花さんも「待つ」に苦しんだ母親の一人です。3年半、葛藤を重ねた末、行きついた結論は、不登校にかぎらず親にとって大事な気づきがそこにありました。
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――お子さんが不登校になったときのことを教えてください。
娘が不登校になったのは、小学6年生の夏休み明けでした。朝起きてきて、学校へ行く時間が近くなると「お腹が痛い」と言うようになって。夏休み明けからパタリと学校へ行かなくなりました。
学校へ行かなくなると娘の体調は、みるみるうちに悪くなっていきました。ご飯がまったく食べられなくなって痩せていき、お風呂にも入らず、歯も磨かない。ふつうの生活ができなくなって、無気力状態になってしまったんです。
性格の面でも以前はどちらかというと明るく、よく笑う子だったのですが怒りっぽくなり、家でもあまりしゃべらなくなりました。仲のよかった弟にも手を出すようになり、ちょっとしたことでケンカをするようになりました。日を追うごとに昼夜逆転状態になって、一日中ひきこもって自分の部屋から出てこないことも多かったと思います。
はじめのうちは「どこか悪いのではないか」と身体の心配していたのですが、病院で血液検査をしても胃カメラをしても、異常は見つかりませんでした。「身体ではないのなら、もしかして精神的なものなのではないか」と思い、しばらくして自宅近くのメンタルクリニックを受診すると、娘はそこで適応障害と診断を受けました。
不調の原因がわかり安心した反面、私にとって娘の診断はショックでした。当時は精神的な病気の知識もありませんでしたし、「精神病は誰でもなり得るもの」という社会の認識もうすかったので、すごく不安になったのを覚えています。
同級生と比べて焦る気持ちも
――娘さんの不登校をどのように受けとめていましたか?
夏休み以降、転げ落ちるように体調が悪くなったので、学校へ行かないことに対しては「この状態じゃ、行けないよね」と思っていました。学校へ行く以前の話というか、毎日生きていくことさえ娘にとってはたいへんだったと思うんです。
なので、適応障害の診断が出たタイミングで「学校へ行かなくていいよ」と娘には伝えました。これ以上体調が悪くなるのなら行かなくていい、と私自身が思ったんです。
しかし私自身、葛藤がまったくなかったわけではありません。私の学生時代は「学校へ行かない」という選択肢がなかったので、学校へ行かない感覚が正直わからなかったんです。なので、体調不良を理解しつつも心の底では「このまま行かなかったら、勉強はどうするんだろう」「この先、友だちができないんじゃないか」「この子はどうやって生きていくのだろう」とつねに娘の将来が不安でした。近所やまわりの同級生の子と娘を比べて、焦る気持ちもありました。
遠足だったり体育祭だったり、私は学校の行事に楽しい思い出があったので「みんなが経験できる学校での楽しいことを、娘は経験できないんだな」と悲しくなったこともあります。不登校になった直後は、もどかしさから「今日も学校へ行かないの?」と娘に直接言ってしまったこともあります。学校へ行かなくていいと感じたのは本当ですが、娘の不登校を最初から受けいれていたかと言われればそうではなかったなと思います。
――その後、娘さんはどのようにすごされたのですか?
学校へ行かなくなってしばらくすると、娘の状態はかなり落ち着いて、小6の秋くらいにはご飯も食べられるまでに回復しました。
ちょうどそのころ、学校から「卒業式はどうしますか?」と聞かれたのですが、娘は「出たくない」と言うので、卒業式には出ませんでした。結局夏休み明けから一度も学校へは行くことなく、小学校を卒業しました。
お道具箱から見つけたのは
卒業式の日は娘の代わりに卒業証書だけもらいに行ったのですが、この日、私は思わぬかたちで娘が学校へ行かなくなった理由を知ることになりました。
「教室に備品が置いてあるので、持って帰ってください」と担任に言われ、私は娘の持ち物を家まで持って帰ってきました。そして、その日の夜、何気なく自宅のリビングでお道具箱を開けると、たくさんの手紙が出てきました。1人の同級生が娘にあてて書いたものです。手紙には、娘の悪口や「あの子とは、もうしゃべっちゃダメだ」と行動を制限するようなことがびっしり書かれていました。
お道具箱からあふれる大量の手紙を見た瞬間「ああ、娘が学校へ行かなくなった原因はこれだったんだ」と初めて知ったんです。同時に「お道具箱に入れていたということは、親にも知られなくなかったのだろうし、先生にも言わなかったのだろうな」と娘の孤独を感じて、ぐっと胸が苦しくなったのを覚えています。娘に対して「気づいてあげられなくて、ごめんね」と心から思いました。
小学校の高学年ってヘンなグループ意識が強くなる年ごろだろうなと思っていましたし、なんとなく、娘の不登校にはそういうことも影響しているのだろうなと、うすうす感じてはいたんです。でも、お道具箱に収まらないほど大量の手紙を書かれるまでだとは思っていませんでした。手紙の存在自体がショックでしたし、何より娘のこれまでの心の傷を想像すると呆然とするしかありませんでした。
ただ、手紙を見つけたことを娘には伝えませんでした。手紙のことを伝えたら、せっかく癒えてきた心の傷をまたえぐることになるかもしれないと思いましたし、それに、親が手紙の存在を知ったとわかったら本人はイヤだろうなと思いました。
結局、「手紙見たよ」と話したのは、娘が中学生になってしばらく経ったころだったと思います。中学のころには体調もよくなり、精神的にもだいぶ安定していたので、話すなら今だと思ったんです。
娘の言葉に開き直った
――中学には通われたのでしょうか?
地元の中学校に進学したのですが、結局、娘は1日も通いませんでした。娘は中学の入学式当日に「中学へは行かない」と宣言をしたんです。
入学式を欠席した日の夜、リビングに下りてきて、ひとこと「私は中学へは行かないから、申し訳ないけどあきらめてほしい」と言った娘の姿は今でも覚えています。突然のことで一瞬おどろきましたが、私はその場で娘に「わかった」と返事をしました。
娘の学校へ行かない選択に「わかった」と言えたのは、私自身が待つことの意味を理解したのが大きかったなと思います。娘が小6の夏休みに学校へ行かなくなってから半年間のあいだ、私は子どものうつの本や不登校の本を読んで、どうやって娘に向き合ったらいいのかをずっと考えていました。
そのとき、どの本にもかならず書いてあったのは「今、子どもは休んでいる。休んで自分のエネルギーが溜まったら、かならず自分から動き出すから、それまで待て」というアドバイスでした。
始めのころは「待つ」というフレーズを目にするたび、どうしても「動き出すときは、いつなの?」「本当に動き出すときなんて来るの?」と疑問や不安な気持ちばかりが込み上げました。頭では待つことの必要性をわかっているつもりでも、半信半疑で心から納得はできていなかったと思います。
しかし、半年という時間をかけて娘の不登校の原因を知ったり、心のケアの方法を学んだり、休むことですこしずつ元気になっていく娘を見たことで、「待つことの意味」を私自身が実感していったのだと思います。小学生のころも学校のない土日になると娘は落ち着いていたので、「ああ学校へ行かなかったら、この子は元気で生きていけるんだ」と感じていた部分もありました。
なので、娘の行かない宣言を聞いたとき、「これはもう待つしかないんだな」と納得をして腹をくくりました。娘にとっても一大決心だったと思うのですが、娘の言葉をきっかけに私自身も不登校という状況に「開き直った」というのが、一番しっくりくる表現かもしれません。
「中学行かない宣言」をしてからは、娘は学校のプレッシャーから解放されたようで、穏やかに家ですごすことが多くなりました。だんだんと本人にエネルギーが溜まってきたのか、その後は無事に体調も回復して、外に1人で出かけたりカウンセラーさんのすすめでフリースクールに顔を出したりすることもありました。中学卒業後は、通信制高校に進学して、そのまま通いきりました。
周囲のサポートと言葉のおかげ
――お母さんも含めて開き直れたことが、転機だったかもしれませんね。
そうですね。私が開き直れたのは、まわりの人のサポートのおかげでもあります。心理学の知識がある知人が「大丈夫だよ」と声をかけ続けてくれたことやアドバイスをくれたこと。スクールカウンセラーさんや病院の先生が私の不安や悩みを聞いてくれたことも大きかったです。まわりの支えがなければ、もっとヒステリックになって娘に当たっていたかもしれないし、「学校へ行きなさい」と言っていたかもしれません。
あるカウンセラーの先生が「ここに来ている子たちは、100点取ろうと思ってがんばっている子たちなんですよ。だけど、50点でもいいじゃないですか」と私に言ったことが今も心に残っています。なぜなら、私自身がそれまでは100点を取らなきゃとか100点を目指していくのがふつうだと思っていたタイプだったからです。自分に対してはもちろん、もしかしたら娘に対しても100点を求めていた部分があったかもしれません。だからこそ、ハッとさせられましたし、先生の言葉が心にストンと落ちてきました。
まわりの人の言葉だったり、娘の気持ちを理解することだったりを通して、私自身の価値観が変わったのだと思います。だからこそ、開き直れたのだろうなと思いますね。
まっすぐじゃなくても寄り道してもいいし、人生を歩むのはどんな方法でもいいじゃないかと今は思っています。みんなのあたりまえや100点じゃなくて、もっと幅もあっていいし、いろんなかたちがあっていいじゃないと。こうあるべきとかこうするべきが、私のなかでよい意味でゆるくなったというか、そんなものなくてもいいんだなと思うようになりました。この価値観は、娘の不登校を経験するまでは私のなかにはなかったものですし、不登校を経験しないと持てないものだったのかなと思います。
――ありがとうございました。(聞き手・遠藤ゆか)
(初出:不登校新聞560号(2021年8月15日発行)。掲載内容は初出当時のものであり、法律・制度・データなどは最新ではない場合があります)