今、「不登校」を考えるために必要な言葉とは
#不登校#行き渋り
今、不登校について考えるために、どんな言葉が必要なのだろうか。どんな「問い」が必要なのだろうか。かつてと今とでは、不登校についての語りにどんな違いがあるのだろうか。今不登校について考えるために必要な言葉を、読者とともに探していきたい、と語る『不登校新聞』編集長によるコラムです。(連載「今『不登校』を問うために」第1回)※写真は本紙編集長・茂手木涼岳
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かつて、不登校を考えることは、「社会と自分を問う」ということだった。社会に対しては既存の教育の問題点を指摘し、別のかたちの教育を模索するという問いを、自分自身に対しては「なぜ自分はこうなったのだろう。不登校からどのように生きていけばいいのだろうか」という問いを投げかけることだった。
しかし現在はどうだろうか。通信制高校が不登校の受け皿となり、教育機会確保法によって不登校が社会のなかにポジショニングされたことで、不登校は「個人の生き方の問題」となった。不登校が「ひとつの選択肢」とされた社会では、個々の学校の不適切対応は批判されても、社会そのものを問う視点は弱まっていく。
また、自分自身を問うという点にも変化を感じる。ここ数年で私が出会ってきた不登校経験者は、「不登校を経験したからこそ、今不登校で苦しんでいる人の役に立ちたい」、「自分の不登校経験を活かしたい」と口々に言う。まるでそうすることのみが、不登校という経験を「浄化」する唯一の道であるかのように。
【連載】今「不登校」を問うために
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