「握った手がほどけない」不登校の子が登校時に感じた緊張感【全文公開】
メイン画像:小林直央さん
群馬県在住の小林直央(なおひろ)さん(19歳)は中学1年生から中学卒業まで不登校だったそうです。不登校の経緯や不登校中のこと、今に至るまでの胸のうちをうかがいました。
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――小林さんが不登校になったのはいつですか?
中学1年生の10月です。2学期が始まったある朝、食事を終えて学校へ行こうとしたら、吐いてしまったことがあったんです。すると、その日を境に毎朝吐くようになってしまいました。いつも通り、朝ご飯を食べて「さあ、学校へ行こう」と思うと気持ち悪さを感じて、トイレにこもる日々が続いて……。「ああ、もうこれはダメだ」と思いました。
しかし、体調を崩すようになってからも、「学校は行かなきゃいけない」という思いが強かったので、休むことはせず、母に車で送ってもらいながら僕は学校に通い続けました。
通い続けるうちに、体調はよくなるどころか、ますます悪化していきました。しまいには、学校へ着いても母の車から一歩も動けないような状態になってしまって。今思うと、無理して学校へ行き続けることに対して身体が拒否反応を起こしていたのだと思います。
車のなかで力んで握った手がほどけなくなったり、足が硬直してしまったり。日が経つにつれ、僕の身体にはさまざまな症状が出るようになりました。
先生からの提案で2カ月ほど保健室登校をしてみたこともありました。保健室の先生が毎日、駐車場まで迎えに来てくれるのですが、体調が悪い僕は保健室に10分居るのがやっと。結局、長くは通えませんでした。
当時は、どうにもならない自分の状況がとてつもなく苦しかったです。どんなにがんばっても学校には居られないし、家に帰って来ても「行けなかった自分」を責めるだけ。体調もいっこうによくなりません。そんな日々をくり返していくなかで「ああ、きっと俺は学校には戻れないんだな」と実感するようになりました。
毎日僕を車で送ってくれる母にも申し訳なくて、どんどんイヤになってきて。「もう、学校いいや」とあきらめるような、半分開き直るような気持ちになっていきました。そんな僕を見かねた保健室の先生が「一度休んだほうがいい」と提案してくれたことをきっかけに、僕は完全に学校へ行けなくなりました。
将来のルート
――小学生のころはいわゆる「優等生」だったそうですね。
勉強は得意なほうでした。テストでよい点を取ると家族が喜んでくれることがうれしくて、褒められたい一心でがんばっていました。もともと僕の家は、学校の校長先生をしていた祖父の影響で、勉強を重んじているところがありました。
両親からはとくに勉強に関して口うるさく言われることはありませんでしたが、一家の主である祖父の勉強重視の価値観が家族全体に染みついていました。
そんな環境のなかで育ってきたので、物心がつくころには僕も自然と勉強に重きをおくようになっていました。小学生のころには「いっぱい勉強して、よい大学へ行って、よい仕事に就く。これが僕の将来のルートなんだ」と漠然と思っていたんです。
学校に対しても「勉強しに行くところであって、遊びに行くところではない」と思っていました。だから友だちづきあいなども積極的にしませんでしたし、する必要もないと思っていたんです。
「勉強してよい大学に」という価値観を信じていたからこそ、学校へ行けなくなってからが、僕は本当に苦しかったです。休んでいることへの罪悪感もすごくありましたし、何より時間が空けば空くほど「勉強についていけなくなる」ことへの焦りが大きくなって。「勉強の遅れを取り戻すには、どうしたらいいのだろう」と途方に暮れるばかりでした。
なかでも一番苦しかったのは、「よい大学を出て、よい就職をするという将来のルートが、不登校になったことで人生から完全になくなった」と思ったときでした。今まで目指してきた道が断たれたことで、「俺はこれからどうやって生きていけばいいんだろう」と絶望感を覚えました。自分の生きていく意味が、わからなくなってしまったんです。
――それはとてもつらいですね。不登校になってから、ご家族の反応はどうでしたか?
正直つらすぎて、不登校当時のことはあまり覚えていないんです。ただ、学校へ行かなくなって半年くらいが経ったころ、父親に「いつまで甘えているんだ」と言われたことは、今でも覚えてます。
いっこうに学校へ戻る気配のない僕に、父はしびれを切らしたのだと思います。それを言われて僕はとっさに「じゃあ、いつになったら甘えさせてもらえるんだよ!」と言い返しました。
僕は小学校のときは成績がよかったし、学校の模範生徒賞をもらったこともありました。優等生だった自分が中学で不登校になって、誰よりも僕自身が自分に失望していました。そんな状況なのに父親から、学校へ行っていないことを一方的に「甘え」と言われたんです。「親なら、ずっとがんばってきた俺を見てくれよ!」と率直に思いました。
将来のためにずっと勉強をがんばってきて、身体がボロボロになるまで学校に通い続けた。そんな今までの自分を父親に認めてほしかったんです。
一方的な「行かなくていい」
また、勉強第一主義の祖父は、あるとき学校へ乗り込み、校長先生に対して直談判したことがありました。「うちの子が行けなくなったなんて、学校に問題があるんじゃないか」と。そうしたら先生に「ご家庭にも、何か原因があるんじゃないですか?」と言い返されたらしく、怒って帰ってきた祖父から「あんな学校へは行かなくていい」と言われました。
祖父は、きっと僕のこれからの人生を案じて行動をしたのだと思います。でも、「行かなくていい」と言われても僕はぜんぜんうれしくありませんでした。直談判までされてしまったら、このあと学校へ戻りたくなっても「どんな顔して戻ればいいんだよ」と思ったからです。結局、祖父も自分の価値観のほうが優先で、僕の気持ちを考えようとはしてくれませんでした。
当時の僕としては、そもそも「もう自分は学校には戻れない」と思っていたので、家族の言動を見ながら「学校うんぬんの問題ではないんだよな」と思っていました。僕自身は学校というものに頼らずに自分が生きていける道を早く見つけなければいけないと思っていましたし、そう思っていても何もできないことがつらかったんです。
よい学校へ行って、よい企業へ、という生き方のルートには、もう戻れない。でも、この先どうやって生きていったらいいのか「新しい道がわからない」という絶望感がいつも心の底にありました。だけど家族は、そうした僕の気持ちまで想像できていなかったと思います。
「学校へ行くか行かないか」ではなく「なんのために生きているのか、どうやって生きていけばいいのか」ということを僕はひとりで悩み続けていました。本当に孤独で苦しかったです。結局、新しい道は見つけられず、不登校のまま中学を卒業しました。
福祉職いいかも
――中学を卒業してからは、どんな道のりでしたか?
中学卒業後は自宅の近くにあった、通信制高校に進学しました。高校では体調もだいぶよくなったので、部活をしたり、行事に参加したり、1年生から2年生までは自分のペースでゆっくり通学していました。
ちょっとした転機が訪れたのは、次の進路を考える、高校3年生のときでした。当時の僕は、なんだかんだありながらも人とふれ合うことが好きだったので、「人を支えることができる、福祉職とか、いいかも」と自分の将来をぼんやり考えていました。同時にeスポーツなどのゲームの分野にも興味があったので調べていると、障がい者の人を対象にしたeスポーツ大会があることを知りました。
それを知ったとき、僕は自分のなかの点と点が線でつながった気がしました。「福祉の世界にeスポーツとかゲームというジャンルを持ち込めたら、おもしろいんじゃないか」と自分の将来を描けるようになったのです。
不登校になった中学生時代、僕はまるで死んでいるような、本当に何も感じられない「無」の状態でした。高校も通えてはいるものの、ずっと中学の延長線上にいるようで。なんとなく生かされているっていうだけで、自分の意思で生きてはいないような感覚があったんです。
それが、高3での進路を決めるタイミングで、運よく興味のあることに出会えた。やっと地に足のついた考え方というか、「この先どうやって生きるのか」を考えていくヒントが得られたように思いました。
今は、大学に進学し、社会福祉の勉強をしています。現代の福祉支援のかたちや歴史など、興味のある分野の具体的な知識を学ぶことができるので、楽しいです。将来、福祉の仕事に就くとしたら、大学に入っておいてよかったなと感じています。
しかし、「自分の生きる道」に関しては、学校に通えるようになった今でも、正直、見つけられていません。中学に行けなくなるまでは、「よい大学、よい就職」が、僕の目指す生きる道でした。でも、中学で不登校になったことで、それがダメになって。そこから、何も見つけられずにずっと今も走り続けているような気がします。
だからこそ、学校や勉強以外で、やっぱり自分の基盤になるような何かをこれから見つけたいですね。自分の人生の軸になってくれるものが、もうひとつほしい。今を楽しめるものでも、夢中になれるものでも、なんでもいいんです。それが見つけられたらすごく幸せだろうし、きっとこの先の人生、自信を持って生きていけるんだろうな、と思うんです。
――ありがとうございました。(聞き手・遠藤ゆか)
(初出:不登校新聞555号(2021年6月1日発行)。掲載内容は初出当時のものであり、法律・制度・データなどは最新ではない場合があります)