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「不登校でも東大行けた」だけでは救われない 不登校を語るときにハマりがちな5つの落とし穴

「不登校を語るのはほんとに難しい」。そう話すのは、学校における多様性・公正・包摂をテーマに活動する武田緑さん。学校現場と学校外の居場所、両方を見てきた武田さんは、不登校を語る際になぜか対立が生まれてしまう「落とし穴」について分析する。皆が子どもの幸せを願っているはずなのに、いつのまにか対立が生まれる、そんな現状をよりよくするための提言を書いていただいた。(写真は武田緑さん)

* * *

私はこの15年ほど、学校教育と多様な教育現場の両方に関わって仕事をしてきた。不登校をめぐっては、さまざまな意見や主張が飛び交っている。このことはけっして最近始まったことではない。また、議論の内容は少しずつ変遷してきている。

かつては「不登校はわがまま、サボり、病気」という見方が今よりもっと強く、むしろ大手を振ってそう語られていた。しかし、さまざまな人の努力によって時代は少しずつ変化し、今では文部科学省の公式見解としても「不登校は誰にでも起こり得る」「不登校そのものは問題行動ではない」とされるようになった。そしてここ数年では、「学校がムリでもここあるよ」と、不登校の子どもたちを受けとめる居場所の存在を積極的に知らせようという動きや、「不登校は不幸じゃない」とスティグマを跳ね返すような発信が広がったりもしている。「不登校と非登校は違うのではないか」とか、「仮面登校や苦登校も問題の本質は同じ」と言う人もいる。さらには、「もはや不登校という言葉はなくなったほうがいいのでは」という意見さえ聞く。

不登校を語るのはほんとに難しい。複雑な現実があるし、ちょっと間違ったらはまってしまう落とし穴も多い。議論のプロセスで誰かが傷つくリスクがとても高いため、多様な関係者(子ども当事者や経験者、保護者、フリースクール等の支援関係者、学校関係者等)の心理的安全性が担保されないと、建設的な議論・対話はまったくもって進まない。

今回は、不登校について語る・対話する・議論するうえではまりやすい5つの落とし穴を整理してみたい。

落とし穴①苦しさの覆い隠し

「不登校は不幸じゃない」。この点だけを発信すると、

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