「本当のこと言っていい?」不登校について糸井重里が今考えていること【全文公開】

#不登校#行き渋り

 「本当のこと言っていい?不登校、なんとも思ってないんだよね」。今号で創刊25周年を迎える『不登校新聞(※初出時の媒体です)』。25周年記念号として、ほぼ日代表・糸井重里さんにインタビューしました。糸井さんには22年前にも『不登校新聞』で取材させていただいたています(第70号掲載)。糸井重里さんの不登校観、そして「おもしろく生きるコツ」とはなにか。不登校経験者とともにお話をうかがいました。(聞き手・古川寛太、茂手木涼岳、編集・茂手木涼岳、撮影・矢部朱希子)※写真は糸井重里さん

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――まずは、今回なぜインタビューを受けてくださったのか聞かせていただけますか。

 とても懐かしかったんですよね。「不登校新聞、まだあったんだ」と思いました。以前インタビューに来てくれたときから約20年。それだけ経てば、団体がなくなっていてもまったくおかしくないわけです。でもまだ続いているというのは、続いているだけの理由があったのだろうと思うし、続かせてきた人たちが、たくさん苦労したりがんばったりしてきたからこそなのだろうと思います。そうした道筋に興味があったので、インタビューをお受けしたんです。

――22年前に取材させていただいた際、遅刻してしまったにもかかわらず、不登校の子どもたちに「来てくれてありがとう」、「不登校を楽しんで」と言ってくださいました。今あらためて、不登校についてどのように思いますか。

 本当のことを言いますね。なんとも思っていないんです。本人や親や教員にとってはすごく重たい問題なのだと思うのですが、じつは第三者はそんなに大きな問題だとは思っていない。正直にそう言ったほうがいい気がします。知り合いの息子さんが学校へ行っていない、というような話はよく聞きます。でも「へえ、そうなんだ」でおしまいです。他人にとっては、そんなものなんですよ。

 ただ、「不登校」という名前には違和感がありますね。別の名前がいいというわけでもなくて、そもそも名前なんてつけなくていいんじゃないか、と。

取材のようす(株式会社ほぼ日にて)

問題でも なんでもない

 病名がついたら治療法が模索されるのと同じで、名前をつけてしまうと、名前がひとり歩きしてしまう。ただ一時期学校へ行かない、それだけのことじゃないですか。問題でもなんでもないんですよ。そして行きたくなったなら、いつでも学校へ行ったらいい。そう考えると、学校へ行かなかったり、気が向いたら行ったりしている人は、すごくいい時間の使い方をしていますよね。

 不登校とは反対の側に学歴の問題があります。いい大学を出たことをすごく大きな価値だと思い込み、威張っている人がいる。これは当然まちがいです。でも、学歴を持っていない人が、学歴を持っている人をあげつらい「東大を出たくせに何もできないじゃないか」と文句を言うのも、まちがっていると思います。両方とも、ほんとはたいしたことじゃないんです。

 いろいろなことが本人とは関係のない付属物なんだと思うんです。「学歴」も「不登校」も付属物です。ですから、生きていくなかで自分についてしまった付属物は、もうしょうがないので、そのまましておけばいいんじゃないでしょうか。

――若い人を見ていて、20年前と今とでちがいを感じますか?

 うちの会社に入ってくる若い子を見ていると、あまり人を見て対応を変えないんですね。えらい人だからこう接しなきゃとか、立場が下の人だから粗末に扱っていいとか、そういった意識がないように見える。人によって自分を変えず、率直というか、あるがままの自分で仕事をしているんです。これはすごく健康的でいいと思います。

糸井重里さん

協力に楽しみを

 また誰かと争ったり自分だけが勝者になろう、という考えもないように見えます。ツッパッていないというか。仕事も勝ち負けではなく、みんなで協力して何かを実現しようとする。そうしたことに楽しみを見出しているんじゃないでしょうか。

 仕事が楽しくない、という人も多いとは思いますが、何か壁にぶち当たっても、「なぜそんなことが起こるのだろう」とか、「どうすればおもしろくなるのだろう」というふうに考えて、自分で問題をつくったり、問題をおもしろがることができれば、たいていの仕事は楽しくなるものです。
 
 これはよく話すのですが、明石家さんまさんがまだお弟子さんの時代、師匠のところで住み込みで働いていたころ、掃除をしていたら師匠が来て、「さんま、掃除はおもろいか」と。さんまさんも正直だから、「おもしろくありません」と言ったそうなんですね。すると師匠が、「そやろうな。おもろうするんや」と。つまり、おもしろくない掃除をどうやったらおもしろくできるかと考えるのが落語家だよ、ということなんです。やっぱり、だいたいのことは最初からおもしろいわけじゃないんですよ。自分でおもしろくしていかないといけない。

 萩本欽一さんも、不本意な仕事しかやってこなかったという言い方をしていました。どの仕事も、「これは無理だ」、「そんなんじゃおもしろくない」、そのようなものばかりを頼まれてきたと。けれども、それをどのようにおもしろくするかというところに、やはり自分のやりたいことがあった。だから、どの仕事も最初はおもしろくなかったし、満足できたことは何もなかったと言っていました。

不登校その後 どう生きるか

――どうすればおもしろがることができるのでしょう。僕は自分の「不登校その後」の人生をおもしろく生きたいんです。何かコツはありますか。

コツで言えたら、とっくにみんながおもしろくなれているでしょうね。コツは自分で探さなきゃ。ただ、おもしろがるための前提条件として、自分を知っておくことが大事かもしれないですね。どのようなときに自分はうれしいのか、どんなときに自分は悲しいのかを自分に聞いてみるといい。「今、イヤだった?」と自分に聞いて「何がイヤだった? こういうのならいいのか?」なんて。そうすると、自分がわかってきます。

 そのうえで、僕にとってのおもしろがるコツはなんだろうと考えてみる。一見すると遠いところにあるのかもしれない。たとえば、体が健康であるとかね。胃がムカムカするときに、おもしろいことをやりたいと思わないですよね。

 あと、おもしろがるためには、結果を求めないほうがいいだろうとも思います。ゴールだけを考えると苦しくなっちゃいますね。ゴールではなく、今生きている過程をおもしろがることが大事だと思うんです。たとえばサーカスの綱渡り。あれは、向こう側に着くことが目的ではありませんよね。観客は、「早く着かないかな」と思って見ているわけではありません。「うわ、すごい」とか「落ちそうだ」とか、ハラハラしながら過程を見守る、それがおもしろいわけでしょう。ゴールに着いたらおもしろい時間が終わってしまうんです。だから、目的やゴールにはあまり意味がなくて、今をどうおもしろがれるか、なのではないでしょうか。

糸井重里さん

――ウェブサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」で毎日記事を書いておられますが、何が原動力になっているのですか。続けるのがつらくなったらどうしていますか。

 つらくなったらガマンしています(笑)。毎日やっていると、たまには休んでもいいか、とよく思います。でも、もったいなくなるんですね。「今日は休みたい」と書くだけでも1本できるのだから、それでごまかしてしまえ、と思うときもあります。けれども、もうすこし何か書くことがあるかなと考えると、何かしら思いつく。それで1日1本書けるんです。絶対にできないことじゃない、と知っているからできるんですね。

 昔、ある人から聞いた話なのですが、親子で川遊びをしていたら子どもが川で流されてしまった。お父さんは助けに行きたいのに、流れが速くてタイミングをなかなかつかめない。そのときにお父さんが、「おまえは泳げるんだぞ」と。つまり、元々水泳教室に通っていた子だったらしいのです。その子は「そうだ、泳げるんだった」と気づいて泳いで川から上がったということです。

 僕らが毎日やっていることは、この話とすごく似ていると思います。毎日1つ原稿を書くといっても、文字数が決まっているわけではないので「バーカ」と書いてもいいんです。なんとかなるんですね。なんとかなると知っていればできるんです。できないと思えばできない。だけど、本当はみんなできるんです。みなさんもよかったら、試しに1年間、毎日何かを書いてみてください。休みたくなったら「休みたくなった」と書けばいい。あるいは、兄弟や友だちに「今日は何かいいことあった?」と言って、その答えを書いてもいい。なんでもいいんです。

 なんでもいいのだから、やればできる。それを知っておく。これが僕の生きるコツですね。ぜひやってみてください。絶対にできますから。(了)

(初出:不登校新聞601号(2023年5月1日発行)。掲載内容は初出当時のものであり、法律・制度・データなどは最新ではない場合があります)

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