【追悼・ちばてつやさん】「戦争は人間を鬼に変える」
漫画『あしたのジョー』などで知られる漫画家・ちばてつやさんが亡くなりました。謹んでご冥福をお祈りします。
ちばさんは幼少期を旧満州で過ごし、終戦後、厳しい生活を送りながら日本へ引き揚げた経験を持ちます。
2010年の「不登校新聞」のインタビューでは、戦争が終わっても平和な暮らしが戻ったわけではなかったこと、引っ込み思案だった少年時代、漫画家になるまでの道のりなどを語ってくださいました。
そして、戦争を知らない世代に向けて、「戦争は人間を『鬼』に変えてしまう」と訴え、漫画を通じて戦争の記憶を伝えることを、自らの「使命」だと語っていました。
ちばてつやさんを偲び、2010年当時のインタビュー「漫画家・ちばてつやさんに聞く」を全文無料で再掲載します。
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今回、子ども若者編集部が取材したのは、マンガ家・ちばてつやさん。ちばてつやさんは旧満州で育ち、その後日本に引き揚げてきた経験を持つ。ちばてつやさんの戦争体験や、戦争を知らない世代に伝えたいメッセージ、またマンガ家になろうと思った経緯などをうかがった。
――ちばさんの戦争体験からお聞かせください。
終戦当時、6歳だった私は、旧満州・奉天というところで暮らしていました。まだ幼かったこともあってどこまで語れるかわかりませんが、少なくとも、戦争が終わったとたんに平和になったわけではありません。戦争の傷跡を引きずりながら5年、10年と飢えの時代を生きてきましたから、そういう意味では戦争体験者ですね。
65年前の話というと、ずいぶん昔のことのように思われるかもしれませんが、私にとってはつい昨日のことのようです。
――当時のことで、とくに印象に残っていることは?
私は放浪癖があってね。ふらっと出かけては、中国人たちの市場に潜り込んだりしていました。私のような子どもがふらふら街中を歩いていても、なんの問題もなかったんです。私が日本人の子どもだったからなんでしょう。なかには、売り物の飴をつまみ食いしてしまう子もいましたが、「ダメだよ~」とたしなめられる程度ですんでいました。
ところが「日本が劣勢だ」という戦況は中国人には伝えられていたのでしょう。日本人を見る眼が次第に変わっていき、売り物に手を出そうなら容赦なく手を叩かれるようになりました。
なかでも一番驚いたのは日本兵への対応です。以前は日本兵が通ると、さっと道を譲ったりしたものですが、わざと肩でぶつかったり、すれちがった後その足元にツバを吐く人もいました。
日本が劣勢だなんて知らなかったのは日本人だけでしたから、あまりの変化にわけがわかりませんでした。直後に日本が戦争に負けたと知り、「あぁ、これが戦争に負けるということなんだ」と痛感しました。
終戦後、すぐにでも日本に帰りたかったのですが、なにせ人が多くて引き揚げ船が足りないんです。船を待つあいだ、私たちを含め、多くの日本人が着の身着のままで中国各地を転々としました。
そのたったひと冬のあいだに、24万人もの人たちが亡くなりました。殺された人もいますが、ほとんどが餓死や凍死でした。
私がようやく日本に戻ってこられたのは終戦の翌年、7月21日でした。中国・大連にある葫蘆島という島から船に乗って九州の博多に到着しました。
父の実家が千葉県・飯岡にあったので博多から列車で向かうわけですが、通る町すべてが完全な廃墟でした。「こんな焼け野原のなかで、どうやって生きていけばいいのだろう」と、子どもながらに感じたのをおぼえています。
そういうなかで新たな生活を始めるわけですから、まさに地獄でした。終戦イコール平和ではない、というのはそういう意味です。食べ物もろくにありませんから、12~13歳くらいまでは、いつもひもじかったですね。
――ちばさんはどんなお子さんだったんですか?
いわゆる”もやしっ子”のような子どもでしたね。家のなかで本を読んだり絵を描いたりラジオを聴いたりと、何日間家にいても平気でした。
ただ、マンガを描くということは、ひきこもらなければできないんです。机に向かってひたすらに描き続けなければ積み重ねられない作業ですから、ひきこもるということは、非常に大事なことだと思うんです。
私自身、もとから引っ込み思案な性格もあって、家のなかで自信をなくしてひきこもっていた時期もありました。
――その後、マンガ家としてデビューされた当初、苦労されたことは?
新人は仕事がありませんから、最初は少女マンガを描いていました。当時、女性のマンガ家はほとんどいなかったので、少女マンガも男性が描いていたんです。私と同世代の手塚治虫さん、石ノ森章太郎さん、赤塚不二夫さん、松本零士さんたちはみな、少女マンガからスタートしています。
私は男兄弟ばかりで、女の子を描くのがすごく苦手で。でも、少女マンガなのに可愛い女の子が描けないなんて話になりませんから、一生懸命描く練習をしました。
――ちばさんのマンガ家としての「核」は、どこにあるのでしょうか?
マンガ家としての「核」ですか。いや、わたしね、「核」がないような気がするんですよ(笑)。
いい絵本を読むと「あぁ、絵本作家になりたいなぁ」って思うし、いい詩を読むと「詩人になりたい」とも思うんです。小説家を目指していた時期もありましたし、音楽家になりたくて手書きで五線譜を書いたりもしました。
でも、イマイチなんです。書いた直後は会心の出来だと思っていた詩も、あとで見直すと思っていたほどよくない。
私が10代のころは小説家にも詩人にもなりたかったんだけれど、どれも長く続かないし、結局なにもモノにならなかったんです。

アルバイトもうまくいかず
ただ、私は長男だったから少しでも家計を助けるために、いろいろとアルバイトをしてたんです。歯ブラシやたわしなどの日用雑貨を風呂敷に入れて担ぎ、売り歩くんです。でも、私は意気地なしでまったくダメだった。
こういうのにも”売り方”っていうのがあるんです。
たとえば、お屋敷を見つけたら、ベルを鳴らさずにいきなり玄関を開けて「ごめんください」と大きな声で家の人を呼ぶ。そうすると「は~い」という声とともに奥さんが出てくるでしょ。そのころには、品物を玄関にズラッとならべておくわけです。
そこでしょんぼり悲しそうな顔の学生が立っていると、「しょうがないわね、いま必要ないけど、たわしとゴムひもをもらおうかしら」ということになる。
私はね、それができなかったんです。「たわし1つでも」と思ってがんばるんだけど、家の人が出てくると押し売りするのが申し訳なくて「すみません」と言って、あわてて出て来ちゃうんです(笑)。
それで、何をやってもうまくいかなかったんだけど、昔は貸本屋というのがあったんです。本が高くて買えないから、一冊いくらで貸し出すわけです。
水木しげるさんは私よりちょっと早いかもしれないけど、あのころは単行本を1冊描くと1万円くらいもらえたので、月に1冊描けばなんとか食べていける、という生きる為にギリギリの原稿料の時代。
そんな貸本屋もつぎつぎとつぶれてマンガ家も少なくなっていたある日、イタズラで描いた私のマンガを買ってもらえたんです。いままで何をしてもダメだと思いこんでいた自分のマンガが売れた。それで舞い上がっちゃったんだ、私はマンガ家になるって(笑)。それがきっかけでした。
ただ、そこで気づいたんです。まったくモノにならなかったと思っていたものが、じつはマンガを描くうえですべて必要なことだったんだと。
マンガには絵を描く技術はもちろん、小説家や詩人の心も欠かせません。ストーリーだけおもしろくても、情がこもっていなければ、読者の心に響かないわけですから。それからというもの、原稿を片手にあっちこっちへ走りまわりました。
3~4年すぎたころから大手の出版社から少女マンガを描く仕事が入るようになり、マンガ家になることができたんです。
――最後に、戦争を知らない子ども世代に伝えたいことはありますか?
なぜ戦争がいけないのかと言えば、戦争は人間を「鬼」に変えてしまうからなんです。ふだん、家のなかでは優しい父であり、兄であった人が鉄兜をかぶり、人殺しの銃を持った瞬間、「鬼」になってしまう。それが戦争なんだ、ということをまず伝えたいですね。
ベトナム戦争におけるアメリカ人帰還兵の多くが心に病気を抱え込みました。大量の枯れ葉剤をまいたり、ベトナム兵と殺し合いを続けるなかで、心にたくさんの傷を負ってしまったがゆえです。
人間というのは一度「鬼」になってしまうと、もとにはなかなか戻れません。自分のなかにできた傷の刃は、自分に向くか他人に向くかのいずれか。
とくに、日本は戦争で人間を「鬼」に変えたばかりではなく、特攻隊というかたちで「爆弾」にも変え、前途有望な若者たちの未来をも奪ってしまいました。
一方で、直接的な命のやりとりはないものの、いまの世界情勢が「経済戦争」ともいうべき状況にあることも気になるところです。
私は「自分がしていることは何のためか」ということをつねに念頭に置くよう心がけています。パソコン一つでたくさんのお金を動かすことができるいま、一瞬で巨万の富を得る人がいれば、多額の負債を負ってしまう人もいます。
「足るを知る」という言葉があります。自分のため、家族のためにがんばることはいいことなのだけれど、「ただ楽をして生きるために」と考えている人が増えているように思えてなりません。
他人を蹴落とし、自分以外の誰かを不幸にしてまで豊かになることがはたしていいことなのか。その点については誰もが真摯に考えなければいけないことだと思います。
マンガを通じて戦争を伝えたい
一人のマンガ家として、ということで言えば、私はこれまで戦争に関わる作品を描くことを極力避けてきました。あまり思い出したくなかった、というのが正直なところなんです。
しかしいま、引き揚げ船のときの体験などをもう一度、きちんと描いておきたいと考えるようになりました。当時は世界中で戦争をしていたわけですから、みな加害者であり被害者です。そして、それぞれの国、それぞれの人に終戦の日があるわけです。
ですから、マンガ家はマンガで、小説家は小説でというように、いろいろな国の人たちが「戦争とは何か」ということを、戦争を知らない子どもたちに伝えていくことができたらすばらしいことだなぁと感じています。
少なくとも、私は長年マンガを描き続けてきましたから、マンガを通じて伝えていきたいことがあります。それが、あの戦争を知っている、あの戦争から生き残った私の「使命」だと感じています。
――ありがとうございました。(聞き手・子ども若者編集部、撮影・梅田優介、ジャック)
■プロフィール(インタビュー当時)
(ちば・てつや)本名、千葉徹弥。
1939年、東京生まれ。同年11月に朝鮮半島を経て、1941年1月、旧満州・奉天(現中国・遼寧省瀋陽)に渡る。
1958年『ママのバイオリン』で雑誌連載を始め、1961年『ちかいの魔球』で週刊少年誌にデビュー。
現在、社団法人日本漫画家協会常務理事のほか、文星芸術大学マンガ専攻科の教授を務める。
おもな作品に、『紫電改のタカ』(63年)、『あしたのジョー』(68年)、『おれは鉄兵』(73年)、『あした天気になあれ』(81年)、『少年よラケットを抱け』(92年)、『赤い虫』(08年)など多数。
(再掲載文の初出:不登校新聞296号(2010年8月15日発行)。掲載内容は初出当時のものであり、法律・制度・データなどは最新ではない場合があります)



