「行きたいけど行けない」とき、子どもに何が起きているのか。経験者が考察する「身体としての不登校」
「私は、身体を意志のとおりに動かせたなら、間違いなく学校へ行っていた。しかし、私の身体は私の意志をボイコットした」。詩人・フリーライターの喜久井伸哉さんは、自身の不登校をそう語る。「学校に行きたい。けど行けない」と子どもが言うとき、そこには何が起きているのか。喜久井さんは自身の体験を通して考えてゆく。(連載「『不登校』30年目の結論」第3回・写真は喜久井伸哉さん)
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あるとき、私の身体に「学校へ行かないこと」が起きた。優しかったはずの親は、私を学校まで引きずっていった。穏やかだったはずの教師は、恐い顔になって説教をした。大人たちは「何を考えているのか?」、「どんな悩みがあるのか?」と聞き、私の「心」を知りたがった。
しかし、「何を思ったか」という意識によってでは、私にとっての「不登校」は、語ることができない。私はまず「意志」の問題としてではなく、「身体」の問題として、不登校を語りたい。
私は10代のとき、自身の「学校へ行けない」反応を、注意深く観察していた。いつ、何が、どのように「行けない」のか。登校する日の朝に「体が動かない」ことが起きても、「右脚を上げる」という動作はできる。「玄関のそばを歩く」ことならできる。しかし「登校のために玄関に行く」となると、「できない」状態が発生してくる。「制服を着る」、「カバンを持つ」といった「登校」のための行為に、「できない」ことが発生していた。
全身に張り巡らされている運動神経が、「登校」の意志だけをボイコットするかのようだった。あやつり人形にたとえるなら、糸が弛緩(しかん)して、操作できなくなるような感覚だ。糸が切れてしまうのではない。身体の感覚はあるのだが、動作を起こすための神経への伝達が、伸び続けるゴムのように、際限なく遅延してしまう。そのため、「『行く』意志」を持ち続けても、「『行く』行為」にまで至らない。自分の体によって、意志が無効化されてしまう。
このとき、意志の強さは、関係がなかった。自動車が動かない場合、ドライバーがどれほど「運転したい」という意志を持っていたところで、車は動かない。「意志を鍛える」という発想では、まったく解決できない状態だった。
「学校へ行く」姿を思い浮かべて
身体が「『行く』行為」をできなくても、私の意志は「行く」ことをあきらめられなかった。私は家にいながら、自分が「登校」する姿を強烈に夢想した。
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